2016年6月24日金曜日

農具としての銃(続き)

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 この言葉のきっかけとなった塚本学「生類をめぐる政治 元禄のフォークロア」は読んでいたので、他の本も呼んでみました。

刀狩り 武器を封印した民衆 藤木久志
P168
1745年(延享2)日向の山村であった椎葉山の村々には、955件の戸数に586挺もの鉄砲があった。うち実弾を使う猟師鉄砲は436挺であった。
 それが、1761年(宝暦11)になると、猟師鉄砲は489挺に増え、米良山、椎葉山などの猟師鉄砲の数は、合わせて1063挺にのぼり、この年の鉄砲改めによって、不要な鉄砲256挺が没収されていた。
 さらに、1836年(天保7)になると、猟師鉄砲は586挺にまで、もとの134%にも増えていた。

P214(第二次大戦後の占領下で)
全国のレベルでは、主な武器の没収状況(46年3月末)は次のようなものであった。
拳銃1万1916、小銃39万5891、猟銃38万4212、軍刀23万9160、日本刀89万7786、槍類14万4407

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P178
(天保13年(1842年))上野国甘楽郡秋畑村)
 山あいの村ならば「高百石に付、鉄砲拾五挺迄」は認めるとの返答があった。

P179(川越藩)
猪・鹿だけではなく狼までもが、昼夜にかかわりなく、山道や人家近くまで出没していたので困っていた。
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 石高(こくだか)は、人間が1年間に食べる米の量を基準にして設定された単位。
 お米150kg分。
 時代によって違いますが、江戸時代の中田は1反あたりの収量は1石3斗なので、100石生産するには77反の面積が必要。
 1反は 991.736m2なので、100石は76300m2(7.63ha)になります。
 7.63haの田んぼにつき15挺の銃というのは、結構な密度です。


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