冒険家の高野 秀行さん 、 角幡 唯介さんの対談。
同じようなジャンルに括られる2人ですが、こうして話してみると、スタンスが違うことが分かる。
角幡さんはスポンサーが無いのか。
北極への費用も装備込みで150から200万円程度らしい。
意外と安いような気もしてくる。
気になった部分をメモ(要約)
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P268付近のノンフィクションについて。
ノンフィクションといっても裾野は広い。
週刊誌ライターや新聞記者もノンフィクション。
それを単純に物語として構築できるかどうかというだけの話だと思う。
ノンフィクションは探検部的。
小説のように観念的に構築していくものじゃなくて、やったもの勝ち。
極端なことを言うと、誰も知らないものを持ってきちゃえばいい。
あとはそれを物語としてみせなきゃいけないんだけど、体や足を使って総合的にやるとなると、若い人に向いている仕事。金もかからない。
例えば、日本語教師で1年海外に行ってしまえば、そこの体験って面白い。
海外には需要があり、そこで一人が食っていくぐらい稼ぐのはわけない。
それで暮らし、合間にいろいろ話を聞いたり見たりして、それで充分書けると思う。
なんでみんなそういうことをやらないんだろうと思う。
P270
海外を放浪していて、もうどこでも生きていけるみないな人がいるわけど、彼らが文章を書かないのは、書く必要がないんだよ。要するにそこで充足しているから。
文章を書くということは、充足していないというのがあるから。
海外でどこに行ってもバリバリやれるという人間は、そこでストレスなく楽しくて充実するんで、書く必要がない。
それはもう文才とは別のモチベーションになってくると思うんだけど、どこが大きいんじゃないか。
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↑引用要約ここまで。
狩猟は外から見れば、異世界で興味深い。
年間10頭の鹿を解体するのも、書きようによってはネタになるかもしれない。
海外の例のように、狩猟のことを書くだけでも、1つのコンテンツになりえる。
それにしても、「今日は鹿1頭」だけでは文章として駄目ですし、読者を楽しませる要素がないですけど。
自然や心理描写、どうしてそこに至ったかまで描ければ、1つのノンフィクションになれる可能性はありそう。
その一方、狩猟のある生活が日常となっているベテランさんは、充実しており、文章を書いたり、残す必要性を感じていないのかもしれない。
そして、経験や知識が残らないまま、人とともに失われていく。
かくまつとむさんが取材した「モリさんの狩猟生活」も、ある意味ノンフィクション。
紙媒体では商業的な出版としうハードルがあるが、ネット媒体ならそのハードルは低い。
地元の古老にインタビューして文章にまとめるだけでも、1つの形ではないだろうか。
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